2024/05/18 20:53

実験的なアプローチとなりますが、整理をかねて、したため(認め)てみようと思います。拙文にしばしお付き合いください。

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横文字のシグネチャー。Instagramで私を知っていただいている方には、お馴染みのアイツです。絵を世の中に出し始めた当初から掲げていますが、実はこのシグネチャー、結構な数の没案があります。バランスがよく、美しいと感じたものを採用し、以来、同じものを使っています。

シグネチャーには「この作品が誰によるものであるかを証明する」という機能的な意味合いがありますが、私はその存在そのものに趣を感じます。東洋画でいうところの「落成款識」ですね。

ではその趣を“なぜ感じるのか“。

表現は往々にして時代や景色、内心情といった刹那的な場面から着想を得るものが多いかと思うのですが、対してシグネチャーは永劫的・記号的なものであり、その落差にある種のナルシシズムを感じてしまうからです。

自分自身は常に変わりゆくものです。ただただ環境によって変わる。ポジションによって変わる。これが人間の性です。そのため本来の表現に向き合うのであれば、自分自身を表すシグネチャーも「刹那的なもの」であるべきです。しかして表現者は「シグネチャー」つまりは「永劫的・記号的」なものとして自身を定義する。

おそらくですが、諸行無常の世に、あえて「表現と向き合う」ことを選択した人は、逆説的に「不変の価値観を持つ」難しさを理解していて、かつ、それがいかに尊重されるべきかを承知している。その不変の価値観を自分に落とし、理想の在り方を追求してみると、結果として、永劫的・記号的な「シグネチャー」という形に発露するのではないかと思うのです。

シグネチャー、つまりは首尾一貫した姿勢にこそ、人は羨望を向ける。ブランド、という言葉に置き換えると分かりやすいでしょうか。

「元より世界がそう見えている」という一部の天才は 存在そのものがシグネチャーになりえますが、「私」というシグネチャー(≒ブランド)として、不変の価値観を持っていたい、そんな内省的かつナルシシズムな姿勢にこそ、挑戦的なセンスを感じてやまないのです。

表現に携わる者が実は「最も自分に自信がない」と揶揄される所以はそうした部分に潜んでいるのではないかと感じます。不変の価値観で、諸行無常な世に相対す。そんな自信あふれる自分を追いかけていたいという、自信のなさですね。

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私は、仕事・飲み会・付き合いに全力を注ぐ、しがないサラリーマンでした。瞬く間に1秒が終わりを迎えていく。そんな生活を7~8年近く送っていました。もちろん決してその時間を否定しているつもりはありません。しかし当時の自分に「誰のための人生か?」と問えば、「分からない」と答えていた気がしてなりません。

当時。通勤電車に揺られながら何となく見ていたYouTubeで、こんな問題提起を耳にしました。

ー10億円貰えるとしたら、貰いますか?明日死ぬという条件で。ー

今思えば極めて陳腐な問題提起ではありますが、なぜか目に留まってしまったことを覚えています。そして、瞬く間に1秒が終わっていく日々を過ごしていたはずなのに「明日には10億円以上の価値がある」と感じている自分がいました。

明日の可能性を信じていたいという願望の現れなのか。何者かになるという自身への所望なのか。

たまたま同じタイミングで家族の生死に関わる出来事があり、1秒の重みを痛感せざるを得なかったこともあり「明日を蔑ろにできない」と、そう感じるようになりました。

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流れるように消化してしまった時間の分「私らしいやり方」で、「私を追いかけなくてはならない」。

UNCUTSは焦燥感とともに始まりました。

増減する数多の定量に翻弄されつつ、まるで教科書に落書きを施す感覚で描き、シグネチャーを乗せ、とにかく投稿しまくっていました。無謀ながら「個展の開催」を目標に、お祭りのような感覚で。

喜んでもらいたい。様々な人に見てもらい、認めてもらいたい。認めてもらえることこそが「私」を強固にする。仕事を貰えることこそが「私」を確立する。焦りながら、邁進していました。

似顔絵企画やプレゼント企画、壁紙配布企画。様々な趣向を凝らしました。

そうこうしているうちに応援してくれる方が増え、作品を通して様々な方とご一緒できるようになりました。

いつしか、要望に応じてご提案し、精度を高めていく「イラストレーター」のような立ち位置にいることが増えました。

もちろん楽しくやりがいを感じます。感じるのですが、ふと、考えてしまうのです。これは「私なのだろうか」と。

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不変の価値観で、諸行無常な世に相対す。

それこそが本来、私が羨望するナルシシズムであったはずです。憧憬したシグネチャーなはずです。
では一体、私が持っていたい「不変の価値観」とは何なのでしょうか。

不覚にも命題に直面してしまったわけです。

どのように世界を見るか。どのような違和感を覚えるか。何に美しさを見出すのか。何に価値を捉えるのか。きちんと向き合わなければ、私というシグネチャーは成立しえない。禅問答のようなことを繰り返しています。

「あれ、喜んでるぞ。なぜ?」「悔しい。なぜ?」

結論、人生が少し冷めてしまいました。笑 
とても内省的な思考なんですよね。ゆえに、これを考えるのは本当に難しいです。

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さて、ようやくですが、私の価値観。朧気ではありますが、見えてきた気がしています。

概略「曖昧さ」。その存在だけが持つ余白や遊び。意識が日本語である私だからこそ、追及していきたい美しさが そこにはあると思っています。

大前提、曖昧さが許されない場面はあります。特に金銭や日時が関わる場面で曖昧な表現をする人は信用できません。敢えていうならば、もっと根本的な姿勢、人間的な原理としての部分を指しています。

何かそうしたものを追求しつつ、エチュード的存在として、私が私たりえられれば、ちょっと素敵になれそうな気がしています。

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もちろん案件のご相談は引き続きドシドシもらえると助かります。嬉しいです。

個人的な作品はこうしていきたい、というメモ書きとでも言いましょうか。ツラツラと書いたのですが、思ったより時間を費やしてしまいました。

実験的なアプローチの結果、さらなる実験にむけて、したため(認め)ていく作業が必要になりそうな今日この頃です。

UNCUTS